【中学歴史】日清修好条規と日朝修好条規

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日清修好条規と日朝修好条規についてまとめています。ポイントは、日清修好条規は、清と対等な条約なのに対して、日朝修好条規は日本有利の不平等条約という点です。

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日清修好条規

1871(明治4)年に日本と清との間の条約。たがいに領事裁判権を認める内容を含んだ平等条約です。日清戦争まで有効でした。

このころ、日米修好通商条約を含む安政の五か国条約の日本不利の不平等条約を改正するために、岩倉具現ら使節団が欧米に出向きますが、交渉は不成功となります。一方で、近代化への推進のきっけけとなる視察でもありました。

台湾出兵

その後、琉球をめぐって、清と対立。日本の明治政府が琉球漁民の殺害に対する報復を口実に1874年、清の台湾に出兵し、台湾を占領します。琉球(現在の沖縄)の事実上、日本領となる。

台湾出兵の前年、1873年に、徴兵令が出されていたことも台湾出兵の要因の一つになったのではと見逃せない。

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日朝修好条規

1876(明治9)年に日本が朝鮮と結んだ条約。朝鮮の江華島で日本艦が砲撃された事件(江華島事件)をきっかけに結んだ条約です。日本が朝鮮を開国させた条約で、朝鮮が独立国であることを認めたうえで釜山などを開港して貿易することなどを決定。

さらに、日本が朝鮮に対し、治外法権(領事裁判権)をみとめさせた不平等条約で、日本の大陸進出の第一歩のきっかけになりました。

樺太・千島交換条約

このころ、1875(明治8)年には、樺太・千島交換条約も結ばれています。日本は樺太の権利一切を放棄するかわりに、それまでロシア領であった千島列島を領有するという内容でした。

日本にとっては、大きな領土面積を失う条約であったともいえる一方で、のちの日露戦争においては、ロシアが太平洋に出ていけないという防波堤にもなるという利点もありました。

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